死ぬまでチャレンジャー


昨日は、会社の忘年会。部の中で最年少の僕は三十路にして、いまだに宴会の幹事を仰せつかっています。早く卒業したい。新人入ってこないかな。。。
忘年会が始まる一時間ほど前に先輩といっしょに会社を抜け出し、マクドナルドでずっと溜まっていた職場環境における不満を聞いてもらった。自分としては間違っていないという自信はあるものの、「わかるよ、その気持ち」って同調してもらうと、スッと気が楽になる。それに溜まっていたものを吐き出して人に聞いてもらうことで抱えていたものが軽くなった気がする。


先輩と話をしていて、うちの会社に導入されている成果評価主義の話になった。評価というものは仕事に対する「モチベーション」になるのかどうか、という話。


先輩:「評価が1ランク上がったり、下がったりしてもたいして給料変わらないから、評価なんて気にしてないよ」
U-jin:「じゃあ、やる気出してやってる人と、適当にやってる人ってなにが違うんですかね?」
先輩:「性格なんじゃないの^^;」



成果に対して評価するという行為が形骸化しているあらわれでしょうか。以前、SPAという雑誌に"出世頭が味わう今どきの地獄"なんて記事が載ってましたが、「出世したっていいことない。給料上がらないのに、仕事は増えるわ、責任は増えるわ。周りに合わせてそれなりに過ごすのが一番」という事なかれ主義的風潮が、昔から存在したでしょうが、最近特に不景気のあおりで顕著のように感じます。
では、自分はというと評価は気にします。当然です。自分のやった仕事に対して上司(他人)がどのように判断しているのか客観的な評価を聞いてみたい。自分のやった仕事はクオリティーの高いものだったのかどうなのか聞いてみたい。納得のいかない評価なら、その理由を聞いてみたい。足りない点があれば補いたいし、間違った点があれば修正したい。しかし、自分のスキルを上げたい、有益な経験を積みたいという欲求は強いですが、出世欲(地位欲)はほとんどありません。まあ役職がつけばつくほど、自分がビジネスを動かせる権限が与えられるので楽しいかもなとは思いますけど。


今の小学生の中には、進学塾で成績のいい子たちのことを「人間の出来がもともと違う、○○ちゃん、すごい」と客観的に判断し、自らを下に格付けし、自らの位置を悟り、悟った者同士でクラス編成している子がいるという記事を読みました。「下流社会」なんて本もベストセラーになっているようです。

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

いま20代30代の元気のいいベンチャー起業家が、雑誌などのメディアで取りざたされていますが、今後は「野心家」と「悟り家」という二極化が進むような気がします。僕はというと「悟り家」にはなりたくないし、死ぬまで好奇心を持ち続けて、いろいろ吸収して自分を高めていきたい。遊びにおいても仕事においても、チャレンジしてみたいことはいっぱいあります。このまえ講演を聞いた建築家の安藤忠雄さんも60歳を越えてもいまだ現役で、若々しくアクティブだしほんと好奇心の塊です。
目指すは、やっぱり

死ぬまでチャレンジャー


ボーナスでたよ。わっしょい♪ わっしょい♪ヒルズ族さんには到底かなわない額だけど、ボーナスはやっぱりうれしいよ。以前頼んでいた年賀状を今日ロフトに取りに行ったら、前から気になっていた絵が販売用として飾ってあった。んんんっ、このあいだまで飾ってなかったのに。。。おぬしボーナスが出たことを知っての行動か。。。